高尾山の歴史

高尾山は1億年前まで、海の底でした。
海の底に7000年前から1億年前にかけて積もっていった地層が、大隆起してできたのが高尾山をはじめとする小仏層と呼ばれる地層です。相当な大隆起で、高尾山では地層が約80度という垂直に近い形になっています。
礫岩、砂岩、粘板岩が交互にあり、その地層と地層の間には水道(みずみち)と呼ばれる隙間があります。高尾山が水をたっぷり含み、水の循環が優れているのはこの地層に依拠します。
今の高尾山は、多様な草木に覆われていますが、もともとは岩。
大隆起して地上に現れてから、気の遠くなるような時間を経過して、今のような豊かな森になっているのです。
岩と水があれば、苔たちがやってきます。水をたっぷり含んだ苔の上には、いろんな植物の種が付き、葉っぱを落とし、微生物たちが分解して土を作っていきます。そのうち巨木になる樹木が芽をだし、岩を抱きかかえ、時には根が岩を割って育っていくのです。彼らが落とす葉っぱや朽ちた枝、倒れた木は、どんどん土となり、柔らかい土の上が好きな植物たちも芽を出すことができる環境が整えられていきます。
このように種類が増えた植物たちの実や種を好んで鳥や動物たちも訪れ始めます。
食べられたり、毛にくっついたりしながら植物たちはあちこちに運んでもらい生息域を広げ、さらにまた多くの生き物たちが同時に生息域を拡大していきました。

そして高尾山と人が出会ったのは、8000年前。縄文早期の頃です。
裏高尾の荒井地区には荒井遺跡と呼ばれる縄文遺跡があります。狩猟のための落とし穴が遺跡として出ているので豊かな狩場だったのかもしれません。集落の遺跡もあり、今よりずっと自然環境に依拠した縄文の人々にとって植物や動物が豊かで、きれいな水を得られる高尾山は、住むにはちょうどいい場所だったようです。

さて、今につながる人と高尾山の歴史、つまり文字で伝えられている歴史が始まったのは、縄文時代よりずっと時間が経った約1300年前。いろいろな高尾山の紹介では、高尾山は1300年前、行基によって開山されたとあるのが通常ですが、それは仏教が日本に入って来てからの話。おそらく行基が開山したとしても、唐突に高尾山を選んだわけではなく、それ以前に、信仰の対象として高尾山が存在していたと考えられます。
高尾山には、豊かな湧水、滝、巨木など神社や寺が造られる前、人々が磐座(いわくら・神がおわす場所)とするような自然物がたくさんあります。今も高尾山には「霊気満山」と山門に掲げられていますが、古代の人々も同じように高尾山を霊山、神の山と感じていたのではと想像します。

今でも地元では、親しみを込めて高尾山を「お山」と呼びますが、薬王院があるから霊山と思っているわけではなく、高尾山そのものをカミの山と感じて暮らしています。

薬王院の正式名称は、高尾山薬王院有喜寺で真言宗智山派の大本山です。行基開山以降(本当に行基が開山したかどうかは不明)、薬王院は寂れてしまいますが、天平より約600年後の1375 年頃、京都醍醐寺より、俊源大徳という高僧が高尾山にやってきます。俊源大徳は高尾山の中興の祖として有名ですが、何より修験道の山としての出発点となったことが重要です。
神仏習合は、明治の神仏分離令以前は、日本では当たり前のことでした。高尾山でもかつては、古来の神祀信仰、修験道や陰陽道、仏教が共存していました。今でも琵琶滝、蛇滝では滝行を行っています。
俊源大徳は、高尾山の興隆を祈って、不動明王8000枚の護摩を焚く行を修め、飯縄大権現を感得したと伝えられています。日本は神仏習合ですから、日本の神様たちは仏が姿を変えて現れたものとする本地垂迹と呼ばれる信仰が普通でした。俊源によって高尾山の飯縄大権現は不動明王が姿を変えたものとされたのです。不動明王は、修験道のご本尊です。俊源は、実在が確認できず創作上の人物という説もありますが、俊源でなくとも誰かが祠を作り、不動明王を高尾山の本尊としたことは間違いありません。

中世以降、高尾山でも修験道は栄えました。今でも琵琶滝コース(6号路)には大山橋という橋がありますが、同じく修験道が栄えた神奈川県の大山から高尾山まで山駆けした時の通り道だそうです。
しかし修験道は明治政府によって廃止令が出され、本山派は天台宗に、当山派は真言宗に組み込まれてしまいました。

戦国時代に入ると高尾山は、北條氏の領地となります。北條氏は、高尾山の保全に力を尽くし、殺生禁断、一木一草すべて伐ることも取ることも厳しく禁じました。高尾山のすぐ隣の八王子城趾である城山は、北條氏照の居城でした。氏照は豊臣秀吉に滅ぼされてしまいますが、家康の時代になっても高尾山は、大事な霊山として保全され続けます。
特に江戸時代は山頂に上り富士山を拝む富士講でにぎわいました。戦国時代は、飯縄大権現など戦国武将たちにとっての信仰の山でしたが、江戸に入ると庶民の信仰の山となったのです。白装束を来て高尾山参りを楽しむ江戸の人々を想像するとちょっと羨ましい気持ちになります。現代の人々も霊山であることをちゃんと知ってくれれば、貴重な虫や植物を持って帰ってしまう人も減るのになぁ、トンネルを掘るなんて発想はないだろうなぁ…と思わずため息が出ます。

近代を迎えて高尾山は、受難の時期になります。戦争に必要と樹木が伐採されたこともあったそうです。戦後、昭和25年(1950年)東京都立高尾陣馬自然公園に指定され、昭和42年(1967年)には、国定公園に指定されました。

高尾山と人が出会って縄文早期から数えて約8000年、行基開山から1300年、高尾山は時々、災害など大変な目にあいつつも、霊山であることが大きく、自然環境は守られてきました。しかし1984年、高尾山圏央道トンネル問題が立ち上がります。一匹の虫を殺しても一本の草をとっても厳しく罰せられた高尾山のおなかに高速道路のため巨大な穴を掘る計画です。
人は高尾山をうまく付き合うことを放棄し、命のかたまりの山としてではなく、ただの岩や土の塊としか見ないあり方に変わってしまいました。霊山であること、日本で一番植物の種類が多いこと、虫の多さは日本三大生息地の一つであること、それらを生かしているのが山のおなかの中を流れる清い水であること、すべて価値がないと言ったに等しい愚行が強行されました。今高尾山には大きな穴がうがたれ、巨大な橋脚が何本も建てられています。
国定公園であることも、都立公園であることもすべて無視でした。環境保全地域にいくら指定されてもこんな事ができてしまうなら指定に何の意味があるのか…と考えてしまいます。高尾山では植物の採取など厳しく禁じられています。私たちの仲間が、かつて折れた枝で木が傷んでしまいそうなので思わずその枝を落としてあげただけで、始末書を書かされたことがありますが、巨大なトンネルはOK。言葉もありません。
トンネルは、琵琶滝の直下約20mあたりを通り、裏高尾の蛇滝周辺に出ています。

地球が何億年もかけて創ってきた地層、1億年前に海から上がってきた高尾山のいとなみは、トンネルが失敗だったと言って埋め戻しても元には戻りません。私たちには、地球が何億年もかけたものを作りだすことはできないのです。
穴を掘られても、多すぎる登山客に踏まれ土がガチガチになっても、今日もお山は何にも言わずそこにいてくれます。

高尾山と人の歴史はこれからも続いていきます。これからどんな歴史を紡ぐことができるのか、それは私たちにかかっています。